081~090ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる ほととぎすが鳴いた。 その方角を眺めやると、もはやその姿はなく、ただ有明の月だけが空に残っていたよ。 この歌は、明け方に待ちかねていたホトトギスの鳴き声を聞くことができ、直ぐに声のした方を眺めてみたが、ホトトギスの姿はすでになく、ただ有明の月だけが浮かんでいた。 という情景を詠んでいます。 平安時代の都人も、夏の風物詩としてホトトギスを愛し、その鳴き声を聞くために暁まで寝ないで待ち明かすということも珍しくなかったようです。 ホトトギスはカッコウに似た小型の鳥で、夏の鳥として古くから詩歌の題材とされてきました。 その鳴き声は、人恋しさを誘うものとして「万葉集」の時代から多くの歌に詠まれています。 備考 ホトトギスの哀調をおびた鳴き声と有明の月の美しさが見事に溶け合っています。 彼は、詩歌管弦に優れていたが、権勢欲が強く人から軽蔑されていたという一面もあったようです。 【後徳大寺左大臣】ごとくだいじのさだいじん 本姓は藤原実定。(1139‐1191) 右大臣公能の長男。 文治5年(1189年)、左大臣になり、祖父の実頼が「徳大寺左大臣」と呼ばれたのに対して、こう呼ばれました。 法号を如円と言い、平安末期の公卿で歌人。 歌風は俊成に近く高雅優艷。 歌は「千載和歌集」以下の勅撰集に約70首入集。 家集に「林下集」 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 思ひわび さても命は あるものを 憂きに堪へぬは 涙なりけり 連れない人を思い、嘆き悲しんで、それでもやはり命は長らえているのに、辛さに堪えられずに流れ落ちてくるのは、涙であることよ。 この歌は、恋の嘆きに耐える「命」と、耐え切れずに流れ落ちる「涙」を対照させて、片想いに苦悩する心境を詠んでいます。 どんなに辛い涙を流しても、人はそれに耐えて生きて行かなければならないのだという、人生全般に対する思いを詠んだものとも解釈が出来る。 自分の恋を深く述懐するように詠まれていて、しみじみとした哀感が伝わってきます。 人間の普遍的なあり方を鋭く観察した作品であると言えます。 備考 道因の死後、「千載集」が出来上がったとき、彼の歌が18首も選ばれていた。 その撰者である俊成(家定の父)の夢に現れ、涙を流して感謝したため、俊成は更に2首を加えて道因の歌を20首にしたという逸話が残されている。 【道因法師】どういんほうし 俗名は藤原淳頼。(1090-没年不明) 冶部の丞清孝の子で、承安2年(1172年)に出家して僧侶になった。 没年は明らかではないが、90歳のとき右大臣家の歌合に参加しているので、かなり長生きしたと考えられる。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる あぁ、この世の中というものは、憂さを逃れる道とてないのだなぁ。 深く思い込んで入ったこの山の奥にも、鹿が悲しげに鳴いているのが聞こえる。 この歌は、俊成が27~28歳のときに詠んだものです。 辛いことの多いこの世から何とか逃れようと、住む人とていない山の奥へと入ったものの、ここでも俗世間と同じように辛いことがあるとみえて、鹿が悲しそうに鳴いていました。 結局、生きている限り、何処へ行っても苦しみから逃れることは出来ないのだ悟り、絶望した気持ちを詠んでいます。 鹿の物悲しい鳴き声とともに、作者の深いため息が聞こえてきそうな作品です。 備考 俊成は幼くして父の俊忠を亡くしました。 また、当時は平安時代の終わりの頃で、新しい勢力が台頭し始めており、藤原氏にとって恵まれた時代ではありませんでした。 俊成の嘆きは、こうしたことを背景に生まれてきたものかもしれません。 【皇太后宮大夫俊成】こうたいごうぐうのだいぶしゅんぜい 藤原俊成のこと。(1114‐1204)。 平安末期から鎌倉初期の歌人。 百人一首の撰者である定家の父で五条三位と呼ばれた。 「千載和歌集」の撰者。 温雅の中に寂しさのこもった奥深い趣の歌風で、幽玄体の和歌の創始者として知られる。 歌は「詞花和歌集」以下に入集。 歌論書は「古来風体抄」 家集に「長秋詠藻」 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 長らへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき もし、このまま生き長らえたならば、また、辛いことの多い今の事が懐かしく思い返されるだろうか。 あの辛かった事が、今では恋しく思われるのだから。 作者の清輔は、歌道の名家である六畳家に生まれました。 しかし、父の顕輔との仲がうまくいかず、恵まれない青年時代を過ごしました。 この歌は、そんな作者が辛い思いをしている自分自身を慰める気持ちを詠んだものなのです。 辛かった過去が今は恋しく思えるのと同じように、生きていれば現在の辛さもまた懐かしく思い出になるだろうか、という内容で現在を軸に過去を振り返り、将来に一筋の希望を見出そうとしています。 この歌は、秀歌として、撰者の定家をはじめ多くの人々に高く評価されています。 備考 辛いことの連続だった作者の人生を考えると、この歌の悲しさがいっそう胸に迫ってきます。 時の流れに従って、悲しい事も苦しい事も、やがては思い出に変わるということは、人間の不変的な心理であり、作者の個人的な事情を抜きにしても、全ての人にとって共感できる歌の内容になっています。 【藤原清輔朝臣】ふじわらのきよすけあそん 藤原清輔のこと。(1104‐1177) 平安後期の歌人で歌学者。 西行・藤原俊成と並び称された。 六条家の歌学を大成し、義弟の顕昭に伝えた。 歌は勅撰集に89首が入集。 歌学に優れ、歌論の「奥儀抄」「袋草紙」などが知られる。 家集に「清輔朝臣集」 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ よもすがら 物思ふころは 明けやらぬ 閨のひまさへ つれなかりけり 一晩中、連れない恋人を恨んで物思いに沈んでいるこの頃は、恋人だけでなく、なかなか夜が明けず白んでくれない寝室の戸の隙間までもが、無常に感じられることですよ。 「閨(けい)」は、女性の寝室を指しています。 辛い恋をしているときの物思いは、昼となく夜となく付きまといます。 それでも昼の間は雑事に追われ、恋の悲しさを多少は忘れていることが出来ます。 しかし、眠れない夜ともなれば、色々な想いが込み上げて、その苦しさはひときわ募ります。 この歌は、恋人の訪れを待って眠れぬ夜を過ごす女性の悲しさを詠んでいます。 恋愛の辛さに時代は関係ないようです。 込み上げる慕情はいつの世も同じなのですね。 備考 作者の俊恵法師は男性です。 男性が女性の立場になって歌を詠むといスタイルは、当時の和歌の技巧のひとつだったと言われています。 暗闇の中で、ただひたすらに夜明けの訪れを願う女性の痛々しい気持ちが伝わって来るような作品です。 【俊恵法師】しゅんえほうし 大納言経信の孫で、源俊頼の子。(1113-没年不明) 若くして父を亡くし、奈良東大寺の僧となる。 歌人として優れていた。 鴨長明(俊恵法師の弟子)の著書「無名抄」には、俊恵の歌論が伝えられている。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな 「嘆け」と言って、月が私に物思いをさせるのであろうか。 いや、そうではなく、恋の思いのためなのに、まるで月が物思いをさせているかのように、流れ落ちる私の涙であることよ。 月を眺めていると、知らぬ間に涙が流れてきます。 それは、月が物思いをさせるからではなく、恋しい人への叶わぬ想いを嘆いてのことなのです。 しかし作者は、月と涙を擬人化して、まるで月がそうさせているように「涙が落ちてくる」と詠んでいます。 旅の途中の暗い夜道を明るく照らしてくれる澄んだ月。 しかし、どんなにその美しさに憧れても、決して月に触れることは出来ません。 西行は天高く輝く美しい月に、手の届かない恋人への切ない想いを託したのでしょう。 備考 西行法師は各地を旅して、自然の美しさへの憧れを多く歌に詠んだ人です。 彼は花と月を特に愛し、それらを題材にした美しい歌を生涯にわたって詠み続けました。 選者の定家は、そんな西行の名歌の中から、月を題材とした恋の歌(この歌)を選んでいます。 「千載集」の詞書には「月前恋といへる心をよめる」と記されています。 【西行法師】さいぎょうほうし 佐藤義清のこと。(1118‐1190) 法号を円位と言う。 平安末期から鎌倉初期の歌人。 藤原秀郷9世の孫。 鳥羽上皇に北面の武士として仕え、従五位左兵衛尉に任じられた。 23歳で出家、嵯峨に庵を結び、また高野山・吉野山などに隠れ住んだ。 東北・四国・九州を行脚する。 藤原俊成(としなり)・藤原定家・俊恵・慈円らと交わり、後世歌聖と仰がれた。 頓阿・宗祇・松尾芭蕉らに大きな影響を与えた。 歌は「千載和歌集」・「新古今和歌集」などに収められている。 家集に「山家集」 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しかし、技巧の多さを感じさせる事なく、悲しい恋の予感に涙する女心の哀れさを感情豊かに歌い上げているところが、この歌の優れている点と言えるでしょう。 備考 難波江は「蘆」や「澪標」を連想させる歌枕で、古くから多くの歌に詠まれてきました。 百人一首にも、難波江(難波潟)を詠んだものがこの歌を含めて3首もあります。 既に紹介しましたように、 NO,19の伊勢の「難波潟・・・」には、「蘆」が詠まれています。 NO,20の元良親王の「わびぬれば・・・」には、「澪標」がモチーフとして詠まれています。 皇嘉門院別当の歌には、その両方が詠み込まれています。 【皇嘉門院別当】こうかもんいんのべっとう 源俊隆の娘。(生没年共に不明) 12世紀末の女流歌人。 「兼実家歌合」などに参加。 詳細不明。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする 我が命よ、絶えるなら絶えてしまえ。 このまま生き長らえていると、こらえ忍ぶ力が弱って、恋心が外に現れてしまうかも知れないから。 この歌からは、抑えようとしても抑えきれずに、心の底から溢れ出てきたような強い感情が伝わってきます。 命を捨ててまで、恋心を隠し通そうとする姿は痛ましいほどです。 彼女が実際にこのような辛い恋愛をしていたかどうかは知る由もありませんが、極限状態に置かれたとき、弱い女心が激情となってほとばしり出ています。 「新古今集」の詞書には「百首の歌の中に忍恋を」と書かれているので、題詠歌(題を与えられて詠んだ歌)であるとこが分かります。 題詠歌というと、実感が伴わなかったり技巧に凝っただけの感動の薄い歌になりがちです。 この歌は、絶唱とも言うべき強さを持ちながら、なおかつ気品を感じさせる秀歌ですね。 備考 和歌を俊成に学び、新古今集時代を代表する一流の女流歌人となりました。 俊成から「古来風体抄」が贈られています。 家定と恋愛関係にあったと言われているが、裏付けるものがなく噂だったようです。 【式子内親王】しょくしないしんのう 後白河天皇の皇女。(?-1201) 平治元年(1159年)に賀茂の斎院(賀茂神社に仕える未婚の皇女)となった。 嘉応元年(1169年)に病気のため退きました。 後に出家して、生涯を独身で過ごしたということです。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ 見せばやな 雄島のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色はかはらず 貴方に恋焦がれて流す血の涙で、色まで変わってしまったこの袖をお見せしたいものです。 あの松島の雄島の漁夫の袖でさえ、波にひどく濡れながらも、色までは変わりませんのに。 昔から、悲しみの涙を流しきった後は、血の涙が流れるという言い伝えがありました。 その言い伝えをもとにして、恋しい人を想って泣き暮らす女性の嘆きを詠んでいます。 「漁夫の袖はいくら波に濡れても色までは変わらないのに、私はもう涙も枯れ果てて、血の涙で袖が紅色に染まってしまった」と、相手を想う気持ちがどんなに強いかを訴えています。 備考 この歌は、源重之が詠んだ「松島や 雄島の磯に あさりせし あまの袖こそ かくは濡れしか」を本歌とした本歌取りの作品です。 この意味は、「貴女を恋い慕って流す涙で、こんなにも濡れている私の袖に匹敵するのは、いつも波に濡れている雄島の漁夫の袖だけです」というものです。 殷富門大輔は、これに答える形で詠んでいます。 血の涙で袖の色が変わったことを、余情として感じさせるいう表現で切り返しています。 本歌を超える新鮮な感じを受けますね。 【殷富門院大輔】いんぷもんいんのたいふ 藤原信成の娘。(生没年共に不明) 平安時代末期の女流歌人。 式子内親王の姉である後白河院の第一皇女の殷富門(亮子内親王)に仕えた。 家定が選んだ「新勅撰集」には、女性では最も多い15首が入首している。 歌集に佐藤義清(西行法師)や藤原定長(寂蓮法師)との贈答歌が残されている。 ◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇ |